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忘れえぬ男たち
今回で、一旦「横浜ベイスターズ暗黒編」を最後としたい。
では、その最後に何を書くか?というと……
「暗黒の中で奮闘した、個人的に忘れられない2人の投手」
について書きたい。
この時代においても、個人成績で突出した成績を残したり、キラリと光る活躍を見せた選手は、多い。
しかし、そうした中でも私が特に忘れられない、忘れたくない投手が何人かいる。
今日は、その中から2人を紹介する。
皆さんの胸にも、彼らのことを胸に留めておいて貰えれば、と思う。
高崎健太郎
2007~2017年の間、ベイスターズでプレーした高崎。
デビュー当初は、試合の途中から投げる「中継ぎ投手」としての出場が中心だった。
しかし2011年からは、試合開始から投げる「先発投手」へ転向。
シーズン最初の登板では、9回のうち7回を投げ切り、1失点に抑える活躍。
先発投手がピリッとしなかった横浜において、今後の活躍が大きく期待された。
その後も他の先発投手に比べればかなり活躍はしたものの、そこは暗黒横浜。
- 6~7回まで1点しか取られていないのに、チームは敗北
- 全く点を取られていないのに、後から出てきた投手が逆転を許してチームは敗北
など、多くの悲劇に見舞われた。
結果、この年は5勝15敗(注)という、数字だけ見るとかなり無残な成績。
(注)投手に付けられる、成績としての「勝敗」についてはこちらとこちらのリンクを参照。説明すると長いので
しかし、ピッチングの内容を知るファンからすれば、
「強いチームならもう少し勝てたのでは……?」
と思わざるを得ない。
エース高崎、誕生
翌2012年。横浜からDeNAにチーム名が変わった初年度。
高崎は、シーズン開幕戦の先発投手「開幕投手」を任される。
開幕投手には、そのチームのエースが指名されるのが原則。
つまり、開幕投手への指名は、
「今年、このチームのエースをお前に任せる」
という宣言であり、先発投手にとってこれ以上無い栄誉なのだ。
投球内容が評価された結果、高崎はエースの座を勝ち取ったのだ。
とは言え、まだギリギリ暗黒時代の途中。結局7勝10敗と、負けが先行。
しかも、点を取られていないにも関わらず、勝利投手になれなかった試合が7試合。
いや~ひどい……
一方でこの年には、高崎の好不調の差が大きすぎることが、ファンから不安視されることもあり、
「高さ危険太郎」
なる蔑称もネット上で生まれてしまう。
(補足➀:「高崎健太郎」という名前の漢字を変えると「高さ危険太郎」となる)
(補足➁:投手の不調時には、投球が高めにいき、バッターにとって打ちやすくなる。ここから、不調の高崎を揶揄して「高さ危険太郎」となった)
暗黒の最終盤で、エースとなった高崎。
ここから、横浜改めDeNAの躍進に貢献していくと思われたが……
全てを暗転させた負傷
2013年。2年連続での開幕投手が内定していた高崎は、オープン戦(開幕前の練習試合)に出場。
しかし、ここで相手打者の打球が足に当たり、離脱を余儀なくされる。
開幕前の調整が完了する前での離脱が影響したのか?この年の彼は精彩を欠き、
7月を最後に一軍の舞台から姿を消してしまったのだ。
翌年以降は中継ぎ投手での出場が中心になるも、目立った活躍を残せず。
その間に若手投手の台頭が進み、活躍の機会を失っていった彼。
そして2017年、彼は引退を表明した。
一番活躍した時期がチームの低迷期と重なり、
チームの上昇期に負傷と不調に見舞われ、退場を余儀なくされた彼。
強くなった横浜で、エースとして活躍する高崎を見たかった。
そう思ってしまったファンは、私だけでは無いはず。
大原慎司
2011年、暗黒の終盤、「横浜ベイスターズ」最後の年に入団。
プロ入りするや否や、中継ぎ投手として毎試合のように起用され、
新人投手の出場数タイ記録である、71試合の出場をマークした。
デビューから一貫して中継ぎ投手として起用されたが、
「大量点差でのリード・ビハインド」「1点を争う展開」「左打者一人だけを抑える」
など、とにかく出場機会は多彩であった。
2014年には、
「前の投手が3者連続で四球を許して無死満塁の状態で登板。しかしその後を押し出し四球の1点のみに抑え、それ以上の失点を許さず3人のバッターを打ち取る」
という活躍を見せる試合もあった。
そうした様々な場面での起用で、着実に結果を出し続けた彼は、
プロ野球史上3位タイとなる、169試合連続での無敗を記録。
(注)敗戦投手の定義は、こちらを参照。再掲
しかし積み重なる出場数が、彼の体に与えた影響は決して小さくなく、
2014年の終盤には左肩を負傷してしまう。
この負傷の翌年、出場数は前年の44試合から21試合に減少。
そして2017年、一度も一軍に昇格できなかった彼は、引退。
プレー期間こそ7年間と長くなかったが、場面を問わず投げ続け、チームを支えたその姿はまさに、
「縁の下の力持ち」
と呼ぶにふさわしい。
「現役生活一番の思い出はプロ一年目に新人記録となる71試合に登板したことです。年間通して投げることが初めてだったので、71試合登板は思っていた以上に疲れが出ましたが、その分、充実感は大きかったです。今思えばあの一年があったからこそ、今まで頑張ってこられたと思います。」
―引退時、大原本人のコメント
このコメントからは、彼にとってのプロ野球人生の濃厚さがうかがい知れる。
そうした濃い活躍を見せた大原。多くの横浜ファンの記憶に残る選手の一人であろう。
おわりに
本当はもう一人取り上げたい選手もいたが、
予想以上に尺が長くなってしまったため、泣く泣く断念。
さて今回取り上げた二人は、暗黒時代から上昇期への過渡期で、横浜を支えた。
二人とも過渡期での入団だったこともあり、暗黒時代に選手としての全盛期を迎えてしまい、
チームの上昇期や、直近数年におけるプレーオフでの出場機会に恵まれなかった。
チームの苦しい時期を支えた彼らが、上昇期に十分に報われなかった……
その残酷さも含めての「実力主義のプロスポーツの世界」なのだろうが、
一ファンとしては割り切れない部分もある。
ならばせめて、彼らが活躍したことを、記憶に留めておきたい。
彼らが活躍した証を、このネットの片隅でいいから残しておきたい。
それこそ今回私が、「暗黒横浜特集」最後の1記事にこのテーマを選んだ大きな動機だ。
彼らの魅力は私の駄文ごときでは伝えきれないだろうが、
皆様に彼らの存在を覚えていただく一助となれば幸いである。
それでは。
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